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  • 清水涎

書物・身体・衣服(2020.12.23)

 


 本棚の間にかかるハンガーラックを背に、なにか読んだり、小さな画面に単語を必死に打ち込んだりしていると、突然、視覚に頼りすぎだろゥと、他の誰でもない、手のひら程度の私に叱られてしまった。すぐに囁き声で謝る。


 わたしには盟友のような書物が何冊もある。彼らは佇み、日々の傍に必ずある。そのことが私の孤独を華やげてきた。同じ部屋の中、きまった椅子に座っていようが、世界文学、翻訳されたそれは、バベルの図書館へ、セーヌの川辺へ、退屈な鮒釣りの隣へ、同じ孤独の中へと私を移動させた。私が語る身体・衣服・空間は、膝の上の書物を覆った一部だ。


 ウエストを締め付けられると、晩餐の話でなくてもそればかりが気になってしまうし、肩幅が狭い衣服を着ていると、どんなに広大なヴェルヌの冒険物語も窮屈に思う。読書に身体を持ち込みたくないと大きな声で言ってみたって、頁を捲っているのは紛れもなく左手で、文字を追うのはこの眼球だった。


 物質には、記憶を滲ませる性質がある。例外なく、書物も。私たちは、日常と混ざり合った不純な読書を繰り返し、楽しさを見出してきた。けれど、いつも夢見てしまう。身体が勝手に経験した、風景や匂い音人間感情が混ざっていない純粋な読書を。そんなことは、人間である内には叶うことはないだろうが


 デカルト『方法序説』のくだらない真似を繰り返して毎日を終える。希望と諦念を行ったり来たり、答えを出さないまま、随分と線を引っぱってきてしまった。結局、存在や身体に文句をつけても、私はここにしかいない。


 身体輪郭は、私の際限だ。せめて読書をする時には、身体輪郭を意識しない衣服を纏いたいと、はじめて縫った衣服には、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』の名前をつけた。柔らかく揺れるワンピースドレスからは、原材料が西瓜糖、微かな甘い香りが漂っていて欲しい。


 身体輪郭は、私の際限か?衣服を縫い纏っていく内に、書物の波に身体を投げ打っている内に、かつて辿り着いた答えを、また疑問に戻した。




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